今日から夏休み。
1ヶ月とちょっと、ようやく学校という狭く縛られた空間から飛び出すことが出来る。
はず…なのだが…
受験生の僕にはそんな浮かれた気分にはなんてなっていられない、寂しい現実。
いや、あのかったるい終業式が終わって、教室で最後の号令を終えたときは喜びに溢れたさ。
その後、友達と冷房がガンガン効いた喫茶店で昼食べて、かき氷なんてものも食べて、
楽しく過ごしていたときまでは、これから始まる夏休みに感銘を抱いたさ。
でも、家に着いて母親に言われた一言で一気に気分が落ち込んだ。
「今日からだから!」
僕が玄関で靴を脱いで二階の自分の部屋に行こうと階段を上がろうとしたとき
台所からひょっこり顔をだしてサラッと言われたその一言は僕を浮かれた世界から現実に引き戻し
階段を登る足を石みたいに重くした。
それもこれもあのテレビがそもそもの元凶だ。
……それは、数週間前の出来事。
僕は喉が渇いたので冷蔵庫からジュースを注いでいたらリビングでテレビを見ていた母親に
声を掛けられる。
「和也、ちょっとこっち来て!」
何やら慌ただしい様子、僕は注ぎ終わったジュースを飲みながら何事かと
少し足早にそっちへ向かった。
「ちょっとこれ見てごらん」
母親の視線をたどるとテレビが目に入る。
……これは…もしかして…
その瞬間、母親が次に口にする言葉がファっと浮かんだ。
「あんたも、今からがんばれば東大行けるかもしれないわよ!」
……やっぱり…
そのテレビの内容はいわゆるバカを東大に合格させるというもの。
こんな途方もない話しを真に受けて、……何を言い出すんだこの人は。
東大なんて、そんなの無理に決まってるじゃないか。
僕は「はいはい」と軽く流し、その場から離れた。
何も最初から突き放しているわけではない。
僕だって、こういう内容の話しを「ほんとに行けそうだな」と、一度は真に受けたりしたさ。
で、実際に行動に移してみたわけだが……そんなうまくいかない。
うまくいくわけがない。
いってたらこの前の模試の結果用紙をみんなに見せびらかしてたさ。
机の裏にこそこそ隠したりなんかしやしない。
僕はさっさと部屋に戻り、もうすぐやっくる夏休みのことばかりを考えた。
夏の海、花火、水着、浴衣…そして……
「むふ、むふふ」
期待と妄想が次々浮かび膨らむ。
そんなこと今のアテではありえるはずないのに…
ドタドタドタ
誰かが凄い勢いで階段を駆け上がってくる。
頭に響くその振動は不快だ。
誰だよ、もっとゆっくり上がって来いよ。
ドタドタドタッ
その振動はどんどん強くなって近づいてくる。
何事だ。何だか怖くなってきた。
そして僕の部屋の扉がバンッと開かれる。
「和也!こ、これ見て!!」
息をハアハアさせながら一枚のチラシを差し出す……その人物は…
母親だった。
「な、何?」
僕は少し躊躇しながらも差し出されたチラシを受け取る。
何そんなに必死になってんだよ…
えーと、なになに、……家庭教師?…
どうやら家庭教師の広告みたいだけど…
「これが何?」
「あんた、夏休みから"それ"やりなさい!」
はい?
今までそれほど、勉強勉強と口うるさくしなかったこの母親が…
「何?急に??」
「"それ"やってあんたも成績上げなさい!」
チラシのアクセントには"必ず成績UP"のキャッチフレーズが。
「いいよ、家庭教師なんて。金かかるだろ」
チラシのどこにも一番肝心な料金が載っていなかった。
「あんたが国立大学に入れば、それくらい安いもんよ!」
国立って何を言い出す………まさかさっきのテレビに影響されて……
「いいわね!早速申し込んでおくから、しっかり勉強しなさいよ!!」
そう言って僕の了承を取らずに部屋を出て行った。
……もう決定事項なのらしい。
………
そんなこんなで今日が家庭教師がやってくる最初の日。
あまり気乗りしない。
僕は何をするでもなくベットに寝っころがって唯々待った。
ピンポーン
呼び鈴が鳴る。
時間的にも、どうやら来たみたいだ。
僕も下に降りて親と一緒に玄関で出向いた。
母親が「どうぞー」と言うと…
ゆっくり扉が開く。
「こんばんは、今日から家庭教師をさせていただきます藤森詩織を申します。
どうぞ、よろしくお願いします」
……
僕は立ち竦んで、……見とれてしまう。
その艶のある長い髪、白い肌、そして抜群のスタイル…
すごく、…すごく綺麗な女性だ。
………
「ほら、あんたも挨拶しなさい!」
母親の言葉で固まっていた体が柔まる。
「ひ、樋口和也です。よ、よろしくお願いします」
僕は赤くなった顔を隠すために深々と頭を下げる。
マジでか、僕はこれからこんな綺麗な人と同じ屋根の下、同じ部屋で二人きりになって勉強するのか…
…そう考えると………自然と顔が緩んだ。
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